真の「暇人」は変人である~欲求から見る人間~
人間だれしも「欲」というものがある。
人間が欲を完全に捨て去るとどうなるか。悟りを開く、という状態に至るのである。
物欲を絶ち、承認欲を絶ち、達成欲を絶つ。
この事に満足感を得る人間も居るらしい。
その先に在るのは
性欲を絶ち、食欲を絶ち、睡眠欲を絶つ。吸気欲を飲水欲を生命としての我欲を唾棄することで得られる物は、これ即ち死、とどのつまりは生命性の超越である。
人間が人間である限り、人間でありたい限り、適度な欲求というものは最低限必要だと私は考える。
堅苦しい前置きはこの辺で。
僕は傍から見るといわゆる”暇人”であることを自覚している。
「こんなブログたらたら書いてる時点で暇人だろ」という声も聞こえてくる。
だから僕は”暇人”について生物的欲求の面から考えてみることにした。(暇人)
前置きに書いたように、人間が生物である限り、欲求というものは存在するのである。
そして生物である限り、欲求に向かって邁進するのである。
「暇」という言葉は、あきの時間・状態。(ある用事が済み次のに掛かるまでなどの)働かずに過ごしてよい間。という意味であり、
「暇人」というのはひまが有り余っている人。という意味であるらしい。
人が真に欲望に忠実であるならば、「暇」が出来た時に欲で予定を埋める。その瞬間そいつは予定のある人間となる。これが普通のパターンである。
では一般的に”暇人”と呼称される人間はどうして生まれるのか。
それは恐らく、「逃避」なのだろう。
自分のしなければならない義務を流し、自身の欲望から目を逸らす。そして己を”暇人”だと嘲り、怠惰に時間を食いつぶす。
こういった人間の事を日本語で”暇人”と呼ぶようにしているのだろうと私は解釈している。
ではタイトルの真の「暇人」とは何を言いたいのか。
欲を捨て、する事が無い人間か。いやこいつは欲が無い時点で人間じゃないも同然だ。
僕が言いたいのは
空いた時間を他人から見た無駄なことに全力で費やす人間
こそが真の「暇人」なんじゃないかってことである。
僕も他人から変人だと揶揄されようとパッションを余すところなくぶつけられるチカラを持ちたい。
だから僕は変人に憧れを抱く。
いつ切れるか分からない大木に只管斧を打ち付けるように、自身に対し真摯に向き合いながら情熱を注ぎこみたいよね!
推敲を頼んだ奴に「・・・で?」って言われる文章を書いたって良いじゃないか!
一度しかない人生、君も何か成し遂げてみる気はないかい?
以上!今回はよぉ分からんプロパガンダみたいやったね
のちのち追記するかもしれんけどコメントとかよろしゅうな~